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おばあちゃんの戦中から戦後の話


なぜこんな流れになったのかは覚えていませんが,おばあちゃんの昔話を聞く機会がありました.

戦中に教師へ就職


おばあちゃん:
16歳の頃はもう(太平洋)戦争中だったから教師になりに面接を受けに行ったのよ。もう教師になれる倍率といったら大変なもので、狭い面接室にばあっと女学生が溢れ返っていたわよ。

ぷぎ:
なんで教師になろうと思ったの?なんで教師が人気だったの?

おばあちゃん:
当時は何もしないで家にいるということができなかったの。もし職がないなら軍の工場に行って働かなければならなかったの。だから教師はすごく人気があって、私の友達も幼稚園の先生なんかをやった人が多かったわ。

ぷぎ:
なるほど。でも倍率が高いのになんで受かったの?

おばあちゃん:
それはね。うーんとたまたま面接でうまいセリフがでてきちゃったのよ。面接しかないんだもの。そう、『先生には子供を育てる夢があります。』みたいなことを言ったら面接官の表情がすごく良くなったのを覚えているわ。私よりも勉強ができた人で落ちてしまった人もいるものね。

最初の授業の日なんて私もまだ子供だったけれど、小学1年生くらいの担当をすることになって、元からいた先生に自己紹介をしてもらったんだけど、紹介されたら若い先生が珍しかったのか子供たちが一斉に前にワーって寄ってきちゃって、そう50人くらいね。私はびっくりして教室を飛び出して走って学校の端まで逃げちゃったの。その後教室に残された子どもたちはどうしたんだろうと思うわよ。全然覚えてないのだけれど。

当時の学校に元からいた先生たちはみんなお婆さんに見えたものよ。でもよく考えれば彼女たちは40歳くらいだったから今思えば栄養が悪くて早く老けてしまったのかもしれないわね。

私たちは女学生は一斉に教師に採用されたのだけれど、ちょうど男の先生がどんどん戦場に送られていってね。空いたそこにポンポンと入れられたわけなのよ。初任給は40円か45円だったわね。

一緒に採用された先生たちと夕方歩いて帰るとね。途中にある尋常高校の男子たちが私たちに向って一斉にお尻を叩いてからかって来たわよ。

男の先生が戦争に行く前には軍服を着て授業中の教室まで見に来てね。そりゃあ悲しかったわよ。だってみんな死ぬと思って行くんだもんね。非常に立派な先生がいて、性格もよくて、戦争に行ったらすぐに将校になられてね、しばらくしたら戦死したという話が来て、本当に悲しかった。家族はどうしたんだろうなと思うわよ。

当時和歌山か三重から来た金持ちの息子の先生がいて、T(玉置?)さんといったかな。彼は私のことを好きだったんだけど、非常に体格が良くて、小使いさんがいて学校に住まわせてたぐらいだったんだけど、戦争に行くことになって彼を新宿まで送っていったのね。私たちは若かったから何も言わずに歩いていたんだけど初台の橋で別れてとてもとても悲しかったわよ。東京まで送っていけば良かったと思うけど新宿までしか行かなかったのよ。彼も死にに行くと思っていて、長男だから髪を切って遺書を残して戦争に行ったわけよ。

疎開から終戦


おばあちゃん:
疎開が始まって生徒と一緒に長野に行くことになって毎日御飯が少なくて非常に苦しかったわ。かぼちゃとか草とかを雑炊にして食べるんだけど、私が疎開した場所は御飯があまりない場所で、大変だったわよ。御飯がたくさんあった疎開地もあるみたいだけど私のところはあまりなかったわね。子どもたちはみんなお腹を空かせていて、栄養失調で具合を悪くする子がいたり、中には白髪になっちゃう子もいて彼のことは忘れられないわ。金持ちの子供は親がよく差し入れをしてくれたりするんだけどそうじゃない子は大変だったでしょうね。

疎開地に他の年配の先生は家具や家族や色々連れてきたりしてたんだけど、私はまだ子供で何も知らなかったから他の子供たちとほとんどおなじで着の身着のまま来ていたからね。今思えば大事な本を少しでも持って行っていればと思うわよ。みんな焼けてしまったから。教頭先生なんて家族を近くに住まわした上に、いろいろ仕送りまでしていたのよ。私たちはお腹を空かせていたけれどそんな姿を一度も見たことがないわ。

ぷぎ:
つまり教頭先生は配給物資からくすねて自分だけ美味しい思いをしていたってこと?

おばあちゃん:
たぶんそうだと思うわよ。私たち下の教師は何も知らなかったけれど、うまくやっていたんだと思うわ。

玉音放送が始まるとなって先生が集められてラジオを聞いたんだけど、ボソボソ言っていてほとんど聞こえなかったわ。でも、これで戦争が終わるんだとわかって本当に嬉しかったのを覚えているの。

ぷぎ:
それってなんで?いままで戦争には勝っているって言ってたはずなのに急に負けるのはおかしいとは思わなかったの?

おばあちゃん:
確かに新聞だと勝ってる勝ってるしか言ってなかったわね。でもあの頃は本当に日々を生きるのがとても大変で、この辛い毎日がやっと終わるのかと思うとすごくほっとしたのね。

戦後など


戦争が終わってしばらくしたらTさんが帰ってきてね。Tさんはフィリピンのほうまで行って、たくさんいた部下は全員死んじゃったそうだけどなんとか帰ってきて、6万円を持って、6万円と言ったら当時では大変なお金ね、私と結婚しようとしに東京まで来たのよ。でも私はお父さんともう結婚してしまっていたからね。彼はがっかりして3万円を無くしたとか詳しくは知らないけれど結構大変な目にあったそうよ。そして彼は戦場から手紙をたくさん書いたそうなんだけれど、1通も私には届かなかったのよ。軍の検閲で引っ掛かったのか、私のお母さんが隠しちゃったのか知らないけれども、その手紙が届いていればいまのお父さんと結婚しないで待っていたかもしれないわね。Tさんは地元の大学に柔道の先生として呼ばれたとかで後に県会議員になったという話をきいたわ。

当時といえば、女性は20才までに結婚するものだと言われていて、友達のKさんなんて、非常に優秀な人だけど、一度も会ったことのない、顔も見たことのない人と結婚したのよ。当時は戦争のために男性の方が少なくて、結婚できない女性が多かったから、親を安心させようと思ってKさんは結婚したのね。Kさんも自分で私は戦争の犠牲者だと言っていたわね。


・・・

・・



昔読んだ『はだしのゲン』に疎開地で先生たちが配給品や仕送りを生徒に渡さないというエピソードがあった気がします.おばあちゃんの話によると実際にそういうことがあったみたいです.そのまんまで驚きです.

現代の日本人は生活が豊かで非常に恵まれていますね.

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